稲葉ほたての仕事メモ

ウェブの編集者/ライターやってます。仕事のメモを置いておく予定でした。

Rez Infiniteが凄まじかった

まだまだプレイヤー数は少ないものの、PS VRをいち早く体験した人間の間で、ひときわ話題になってるのが、水口哲也氏の『Rez Infinite』だ。

 

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自分も体験してみたが、もう凄まじい衝撃を受けた
360度の視界の中で繰り広げられる、音楽と光の強烈なシャワー、そしてAreaXのほとんど現実の身体の存在を忘れるレベルで自在に上下左右に動き回れる快楽……これほどに仮想現実と呼ぶにふさわしい体験を真に実現したものは、自分のこれまでのVR体験の中では全く存在しなかった。それどころか、この数年で体験した全てのジャンルのコンテンツの中でも、確実に衝撃度はダントツである。

そして、自分のVRに抱いていた「ビミョーだなあ」という先入観は一掃された。もうこの数日、仕事に支障が出るレベルで、何度も何度も同じ作品を繰り返すという体験を久々にした、ホントに(そして、みんなごめんなさい)。

この作品の素晴らしさに身もだえたところ、そして痛快に思ったところは、具体的には山ほどある。だが、やはり最も面白かったのは、水口氏が十数年の時間をかけて追究してきて、そしてぶっちゃけ熱狂的なファン以外にはちょっと「古くさくてイタい」くらいに思われていたビジョンが、ハードウェアの向上でそのポテンシャルを十全に輝かせたとき、現存するVRでもダントツの衝撃体験になってしまったことそれ自体である。

 

実のところ、この2001年に発表されたゲームのビジョンは、20世紀末に流行したサイバーパンク時代の仮想空間の抽象的なイメージがまんま実装されたものだと思う。そして、これは仮想空間のデバイスというときに、ある世代以前の人間ならば誰もが真っ先に思いつくものなのではないか。

しかしVRに挑戦した他のゲームクリエイターは、こういう挑み方は避けていた。むしろ多くのVRは、もっと”ウェルメイド”に既存のゲームがVRになったことへの言い訳を頑張ってきたことばかりが目立つ――高所恐怖症を体験してみるとか、巨大ロボットを操縦してみるとか、女子高生の観察日記を楽しむとか……だが、このRezにおける水口氏の古典的なテーマへの挑戦の本気ぶりに触れてしまうと、それらはがっかりするほど色あせて見えるようになる。

 

では、その古典的なテーマとは何か?
――それは「人間精神や感覚のコンピュータによる拡張」である。

そう、このゲームはオウム事件以降、日本では完全にイタいものとなったニューエイジ的なコンピュータ文化の血脈の末裔でもある(海外のインタビューで、スタッフのバーニングマンへの言及もあると聞く)。そもそも水口氏は日藝時代に、オカルティズムとコンピュータ文化を結びつけたニューエイジ系の美学者の奇才・武邑光裕氏のゼミにいたという。彼は今やすっかり忘れられた論客だと思うが、水口氏は今も彼が定期で開いている私塾の発起人になっていて、実はEDのクレジットに武邑氏の名前も載っている。

 

 

つまりは、本作はカルトゲーム呼ばわりされてきた『Rez』の逆襲であると同時に、ヒッピーカルチャー直系のコンピュータ文化の逆襲なのだ。特に、AreaXのVR体験が人間に与える異様な高揚感は、かつてそれこそ武邑氏が論じたようなメディアアートが到達し得なかった、ある種のスピリチュアルな体験の領域に確実に到達している。それがHMDという極めて古典的なUI*1が普及するのと同時に起きたのは、とても示唆的である。

そして、そんな作品こそが、VRの黎明期にこれほどの輝きを放ってしまったこと――それは、まだぼんやりとした予感ではあるが、どこかHMDによる表現が今後向かっていく先を暗示しているように思えてならない。

*1:一般書だと、書籍版『魔法の世紀』の第二章で、この辺のところは落合陽一さんが解説してます。